「世の中に残さなあかんって思える会社にしたい」
取材も中盤に差しかかった頃、末廣󠄁社長が、ふいに放った言葉。
それは、跡継ぎとしての義務感ではなかった。むしろ、父の代から40年以上の積み重ねを一度全部点検し直して、その上で「残さなあかん会社」を自問している経営者の声だった。
第1章創業者の父と、工事センターのはじまり
末廣󠄁社長の父は、大分の出身だった。
集団就職で大阪に出てきて、市役所に勤めた。やがて夜のアルバイトで通った先が、運命を変える。塾と電気工事を兼業する、夫婦経営の小さな店だった。塾は奥さん、電気工事は旦那。父は旦那の下で電気を、奥さんから商売を学んだ。
「あのおばちゃんはね、めっちゃ賢かった。金勘定にうるさい人やった。父はそこで商売の基礎を学んだんよ」
その頃、末廣󠄁は幼稚園にいた。
「父と母が離婚してね。妹連れて、箕面に引越してきた」
ほどなく父は再婚し、新しい母が家にやってきた。
「優しい人やった。育ての母やと知ったのは、もっと後やったけど」
やがて父は市役所をやめ、独立する。テレビなど「三種の神器」が一家に一台になっていく時代。家の電気が壊れたら、町の電気屋を呼ぶ。その電話は、ニュータウンに新しく引越してきた家から鳴った。父はその一本一本に、箕面というまちのチャンスを見た。
「引越してくる家から個別に依頼を受けるより、引越しセンター経由だったら団地ごとまとめて受けられるんちゃうかって。そこから飛躍していった感じですね」
工事センターの設立は、末廣󠄁が中学に入る頃だった。

第2章中学2年、新幹線のグリーン車で
中学2年だった末廣󠄁少年は、休みの日はほとんど現場だった。
春休みは引越しシーズン、夏休みはエアコン繁忙期。父は容赦なく息子を全国に飛ばした。福岡、東京、横浜、名古屋。
初めての全国出張は、東京だった。
「初めて東京行くときに、新幹線のグリーン車に乗らされたんですよ」
中学生に、グリーン車!
しかし、それは贅沢ではなく、修行の始まりだった。
新店舗の立ち上げで、所長の家に1ヶ月泊まり込み。同じ釜の飯を食って、その人について全現場に入った。
「中2やで。所長の家行ったら『遊び盛りやのに可哀想やな』と思われてたんやろうね」
職人は厳しかった。容赦なく怒鳴られた。それでもいい、と父からも言われていた。
一方で、仕事から離れると職人は愛を持って接してくれた。
「学校の勉強がわからへんなって帰ってきたら、現場のおっちゃんが教えてくれる。家庭教師が、現場のおっちゃんみたいな感じやね」
多感な中学生時代に、人の厳しさと優しさを浴び、泥臭い現場に自分の身を置いた。
それが、末廣󠄁正治という経営者の礎を作ったのではないか。
話を聞きながら、そう感じた。
第3章大きな教訓と起死回生
社長になる前。本部長時代の話だ。
引越し屋からのエアコン取り付けだけでは、もう一段先に進めない。
末廣󠄁は、家具やパソコンのセッティングを請け負う事業に手を伸ばした。
結果は、思うようにはいかなかった。
「畑違いの仕事に人を割いたから上手く回らなかったうえに、本業の引越しの方が動きにくくなって、シェアが崩れ、経営も厳しくなっていった」
社長である父は、役員室に役員3人を呼び、「報酬を10%ずつ下げてくれ」と頼んだ。
しかし、全員、目の前で断られた。
その夜、父は重い口を開き、
「もう役員全員解任しよう」と。
長年苦楽を共にしてきた仲間だ。簡単に決めたことではないだろう。
人一倍、身なりに厳しかった父が、しわくちゃのスーツだった姿は今も忘れられない。
「仕入先も離れていった。売掛があかんとか。ガソリンも、現金やないと売ってもらえんようになってきた」
そこから2、3年、本当にしんどかったという。1980年から続く工事センターの歴史のなかで、唯一大きな赤字を出した時期だった。
その経験で、自分のなかに一行が刻まれた。
「畑のちゃう仕事には、絶対に手を出さん。今の軸にある仕事から派生するものでないとあかん」
転機は、九州発のある通販会社との出会いだった。
当時は、ローカルラジオ番組が始まったばかりの、まだ規模の小さな会社。
営業本部長として、末廣󠄁はその一社に食らいついた。
そして2011年、地上デジタル放送への移行。
テレビ業界が一斉に動いた瞬間に、末廣󠄁は仕掛けた。
古いテレビを引き取り、新しいテレビを運び、設置までを一貫で請け負う。社内の現場社員からも、協力業者からも「そんなん誰もやれへん」と返ってきた。
「東京だけ、それをやっている同業者がいた。そこに習ってでもやるしかなかったんよ」
東京で先行していた一貫サービスを、全国で協力してくれる業者を探し回った。
「あれが、起死回生やった」
引越し屋一本で勝負していた会社が、通販大手のネットワークを支える会社に変わっていった。
第4章ホームページの真ん中に、採用ページを置く
社長になってからの末廣󠄁は、会社のなかでの自分の立ち位置をずっと考え続けてきた。
「父は、社外との繋がりは僕より少なかったかもしれん。でも、社内との距離感は、近かったところもあったやろうな」
新型コロナウイルスが、その社内距離を一度、断ち切った。
「各支店に詰めようと思ってた動きが、いっぺんに全部なくなった。あの期間からきちんと現場を把握しにくくなったなって」
それでも末廣󠄁は動く。
月1回、各支店の支店長を本社に集め現場で起きている事案を共有したり、本社の部長たちと自社のホームページを覗き課題を追究する。
「関係のない部長を作りたくないんよ。各部みんな入って、ホームページを覗きながら会議するんよ」
採用ページは、その中心にある。
会社の商売を中心に考えると、採用はどうしても後回しになる。
だが末廣󠄁は、月例の部長会議の議題に採用を据えた。
「今うちが一番力を入れてるのは、ホームページや」
そして、末廣󠄁は採用そのものに時間をかける。
クレペリンとYGの適性検査を、時間をかけて受けてもらう。
「支店長から不満が出ることもある。でも、譲らへん」
「向こうもこっちを見ている。向こうが選んでくれる会社にせなあかんから」

その上で、最後は人として「この人と本気で一緒に働きたい」と思えるかどうかで決める。
「この人、なんかおもろいやん!って思える人。例えば、見た目は大人しそうでも、好きなことは目を輝かせて話せて、聞いてる人までワクワクするような人。そんな味のある人」
「そんな人と一緒に働きたい」
終章次の世代たちが、選んでくれる会社か
ある日、末廣󠄁の娘が、大手不動産会社の説明会に行った。
「営業はガンガンやらなあかん、ノルマ達成してなんぼや!娘は、今どき暑苦しすぎる、自分には無理やと言う」
末廣󠄁は、その話を聞きながら考え込んだ。
「今の若い子たちには、何が響くんやろ。何か奇抜な方法があるんやろか」
末廣󠄁の娘のひとりは今、ちょうど就活の真っ最中だ。
「よく聞かれるんですよ。『継がせるの?』って。けど、こっちから言って継がせるんやなくて、娘たちが自分の意思で選んでくれる会社にせなあかんのちゃうかなって」
それは、後継問題の話としてだけではなかった。
「本当はね、うちの会社におる社員たちのなかで、要はプロパーから社長になってもらうのが一番いいんやろうなと思ってる」
そのために、これから10年でどう会社を磨くか。
「エアコンの移設や取り付けを長年やってきて、今は『クリピカ』にも力を入れている。ただ掃除するだけやない。一旦エアコンを取り外して、工場で分解、全部丸洗いして、グリスアップまでして納める。新品同様になるで。なかなかこのクオリティでやれる業者は、少ないと思う」
「この既存事業を起点に、個人のお客様にも、もっと喜んでもらえるような体制にしていきたいと思っている」
「そして、世の中に残さなあかんって、次の世代の人達にも思ってもらえる会社」
末廣󠄁は自分の会社を「世の中に残さなあかん会社」にすることを、いま自分の軸にしている。
「将来、若い人が『工事センターに入りたい、ここで自分も会社も成長させたい』って思ってくれる会社にしたい」
中学2年で全国の現場を駆け巡った末廣󠄁少年は、40年以上の月日が過ぎても、情熱と誇り、そして人への愛で溢れているのだと感じた。
「世の中に残さなあかんって思える会社」
それは、義務というより、誇りに近い言葉だった。

この会社が大切にしていること
「幹は変えず、枝葉を時代に合わせて進化させる」
「人を大切に商売する」
「個人個人が持つ魅力」
こんな人と働きたい
仕事の外側に、夢中になれる何かを持っている人。見た目や肩書きではなく、話してみたら「おもろい」と思わせる、人としての味を持っている人。
そして、自分の意思で「この会社で働きたい」と選んでくれる人。
取材・文:志ノオト編集部 / 株式会社WillGear
取材日:2025年9月12日 於:株式会社工事センター 本社


